伝える——伝える側に立つということ

八丈太鼓はなみずきの奏子です。

「伝える」というのは、どういうことなんだろう。

八丈太鼓を子どもたちに伝える。

そう言葉にすると、なんとなく簡単なことのようにも聞こえる。

叩き方を教えて、
できるようになったら次へ進む。

でも、実際にはそんなに単純ではない。

八丈太鼓は、楽譜に書かれたものをそのまま渡せばいい音楽ではない。

身体で叩く。

呼吸で叩く。

相手の音を聴く。

自分の音を返す。

その人が持っているものが、そのまま音になる。

だから、伝えるというのは、
決まった形をそのまま渡すことではないと思っている。

自分がこれまで叩いてきた中で感じてきたこと。

身体で覚えてきたこと。

音を聴いて、失敗して、また叩いてきたこと。

そういうものを、子どもたちの前に置いてみる。

そして、子どもたちが自分の身体で受け取っていく。

もちろん、伝える側には技能が必要だ。

「子どもだから、このくらいでいい」ということではない。

むしろ、子どもたちだからこそ、
八丈太鼓の面白さや深さを、ちゃんと伝えたい。

音のことも、身体のことも、間のことも。

伝える側が持っているものを、
できるだけ惜しまず渡していく。

でも、それは「先生になる」ということとは、少し違う気がしている。

親や地域の人たちも、その場にいる。

子どもたちを見守っている。

一緒に笑ったり、音を聴いたりする。

そして、八丈太鼓を知っている人は、
伝える側に立つ。

それぞれが、それぞれの場所から関わればいい。

大切なのは、誰が上で誰が下か、ということではない。

八丈太鼓を伝えるために、
その場にいる。

それだけでいいのかもしれない。

そして不思議なことに、
伝える側に立つと、自分もまた学ぶことになる。

子どもの音を聴いて、気づくことがある。

今まで当たり前だと思っていたことを、
もう一度考えることもある。

自分が受け取ってきたものを、
誰かに渡そうとすると、
自分が何を受け取ってきたのかが、初めて見えてくることもある。

だから、

学ぶ ↔ 伝える

なのだと思う。

一方通行ではない。

学んだ人が、伝える側になる。

伝える人も、また学ぶ。

その繰り返しの中で、
八丈太鼓は次の人へ渡っていく。

「八丈太鼓を子どもたちに伝える会」という名前にしたのも、
そんなことを考えたからだ。

「教える人」を増やしたいわけではない。

子どもたちに八丈太鼓を伝える側に、
一人でも多くの人が立ってほしい。

その人が、どんな音を持っている人なのか。

どんなふうに八丈太鼓と出会ってきたのか。

それぞれ違っていい。

むしろ、違うほうがいい。

八丈太鼓は、そうやって人から人へ渡っていくものなのだと思う。

そして、その先には、
いつか子どもたち自身が誰かに伝える日も来る。

そのとき私は、
「伝えた」と言えるのだろうか。

それとも、ただ次の人へ渡しただけなのだろうか。