八丈太鼓はなみずきの奏子です。
子どもたちに八丈太鼓を伝えることを考えていると、
「支える」という言葉が出てくる。
でも、支えるって何だろう。
何かを教えることとは、少し違う。
子どもたちが太鼓を叩いているそばにいる。
うまくいかないときも、うまくいったときも、見ている。
親だったり、地域の人だったり、たまたまそこに来た人だったり。
ずっと教え続ける必要はない。
太鼓を叩けなくてもいい。
ただ、子どもたちが安心してそこにいられるように、
その時間を見守る人がいる。
そういう環境も、「伝える」ことの一部なのだと思う。
もちろん、八丈太鼓そのものは本気で伝えたい。
子どもだから、簡単なことだけでいいとは思っていない。
身体の使い方も、音のことも、間のことも。
八丈太鼓として積み重ねてきたものは、ちゃんと伝える。
環境は大らかでいい。
でも、やっていることまで曖昧にする必要はない。
むしろ、本気で学べるからこそ、
周りにいる大人は少し離れたところから見守っていられるのかもしれない。
そして、支えるということを考えると、
「支える人」と「支えられる人」も、そんなにはっきり分かれていない気がする。
子どもたちを支えているつもりが、
その姿に大人が元気をもらうこともある。
場を支えているつもりが、
そこで生まれた音に、自分自身が何かを受け取ることもある。
八丈太鼓を続けていくために、
誰かが時間をつくる。
誰かが場をつくる。
誰かが子どもたちのそばにいる。
そして、その活動を応援したいと思う人が、
寄付という形で支えることもある。
「こども八丈太鼓賛助会」も、そんなところから生まれたものだ。
でも、支えるというのは、
外側から何かを与えることだけではないと思っている。
学ぶ人がいる。
伝える人がいる。
それを見守る人がいる。
そして、また誰かがそこから何かを受け取る。
そう考えると、
学ぶ ↔ 伝える ↔ 支える
なのかもしれない。
一方通行ではなくて、行ったり来たりしている。
子どもたちが八丈太鼓を叩く。
その音を、誰かが聴く。
聴いた人が、また次の誰かを支える。
そして、その支えが、また子どもたちの新しい音につながっていく。
たぶん、こういう循環が続いていくことが、
「伝統を残す」ということとは少し違う、
八丈太鼓が生きていくということなのだと思う。

