八丈太鼓はなみずきの奏子です。
ひとつ、仮定の話をさせてください。
もし八丈太鼓が、太鼓の演奏そのものとして無形民俗文化財に指定されたら、どうなるでしょうか。
現在、八丈島の芸能は文化財として位置づけられています。昭和27年に「八丈島の民謡」が東京都の無形民俗文化財に指定され、昭和47年には「八丈島の芸能」が国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択されました。どちらも、唄や踊りを含んだ「芸能」というまとまりでの位置づけです。太鼓は、その中の一部として含まれています。
では、太鼓が単体で指定されたら。
支援や認知度の面では、得るものがあるでしょう。一方で、「正調」という言葉が生まれてしまうのではないか、という心配の声も聞きます。どちらももっともです。ただ、今日書きたいのはその是非ではありません。
指定されるとき、必ず起きることがひとつあります。
誰かが「八丈太鼓とはこういうものである」と、文章に書く。
指定とは、記述されることでもあります。そして記述しようとした瞬間に、私はある問いの前で立ち止まってしまうのです。
いつの八丈太鼓を、書けばいいのだろう
八丈太鼓の姿は、時代とともに変わってきました。これは私の推測ではなく、記録に残っていることです。
江戸時代の記録では
1847年の『絵入八丈土産』や『八たけの寐さめ草』を読むと、そこにあるのは盆踊りの夜の情景です。流人の武士が刀の代わりにバチを握った、という物語が広く語られていますが、文献が伝えているのはもっと生活に近い風景でした。島の人たちが、暮らしの中で打っていた音です。
祭りの合図だった頃
「八丈太鼓囃子」という言葉があります。太鼓がステージで演奏される主役になる前、それは祭りの始まりを告げる合図でした。遠くの人に「さあ、始まるよ」と知らせるための音です。聴かせるための演奏ではなく、呼ぶための音でした。
唄が主だった頃
昭和の記録を読むと、意外なことが分かります。伝説的な太鼓の名手として語られる人たちは、まず唄い手でした。太鼓は唄に添うものであって、単独で立つものではなかった。今の感覚からすると逆転しています。
宴会の太鼓、生活の太鼓
かつて太鼓は、もっと開かれた生活の延長線上にありました。酒が入り、唄が重なり、交代しながら打ち鳴らす祝いの席。そこには舞台も客席もなく、打つ人と聴く人の境目すら曖昧な「その場の熱量」が存在していました。
舞台に上がった頃
八丈島で芸能祭が形になっていくのは、戦後です。『南海タイムス』の記録を追うと、その境界線が見えてきます。観光の波や高度経済成長とともに、太鼓は「観せる芸能」へと変化していきました。酒の席の賑わいから切り離され、照明の当たる舞台の上へ。客席があり、舞台があり、演目として披露される。叩く者と見る者が明確に分かれたこの形式は、そう古いものではありません。
そして、今
ステージで、独立した打楽器の演奏として。下拍子と上拍子が掛け合い、上を打つ人は即興でバチを走らせる。多くの人が「八丈太鼓」と聞いて思い浮かべるのは、この姿でしょう。
並べてみて思うのは、どれも八丈太鼓だということです。
どれかが本物で、どれかが偽物ではない。囃子だった太鼓も、唄に添っていた太鼓も、舞台の上の太鼓も、それぞれの時代の中で、それぞれに完結していました。
記述は、一点を選ぶ
けれど、文章にするときには選ばなければなりません。
「八丈太鼓とは、こういうものである」と書くとき、その文はどこかの時点の姿を写し取ることになります。囃子として書けば、今の演奏は説明できない。今の演奏として書けば、呼ぶための音だった時代は外に出る。
守られる対象の内側に入るものと、外に出るものが、そこで分かれます。
これは指定という制度が悪いという話ではありません。記述という行為が、そもそもそういう構造を持っているということです。写真を撮るのに似ています。シャッターを切れば、その瞬間は残る。けれど、その前と後は写らない。
あなたなら、どう書きますか
私は26年、八丈太鼓と向き合ってきました。それでも、この問いに答えを持っていません。
ひとつだけ、考えていることがあります。
八丈太鼓は変わり続けてきました。合図から、唄の伴奏から、舞台の演目へ。その変化は、誰かが計画したものではなく、その時代の人たちがその場でやってきたことの積み重ねです。
だとすれば——「変わり続けてきた」ということ自体を、書くことはできるのでしょうか。
ある一点の姿ではなく、変わっていく力そのものを。それが記述可能なものなのかどうか、私にはまだ分かりません。
もし、あなたが八丈太鼓を一文で書くとしたら。どの時代の、どんな姿を選びますか。
その答えを、聞いてみたいと思っています。


