【意外な歴史】伝説の太鼓名手も、かつては「唄い手」だった。昭和の記録が語る八丈芸能の真実

皆さんは、「八丈太鼓」と聞いて何を思い浮かべますか? 全身に響くような重低音、勇壮なバチさばき、そして華やかなステージ……。 今や八丈島の観光の顔とも言えるこの太鼓ですが、実は昔から今のような「主役」だったわけではないことをご存知でしょうか。

手元に、磯崎八助著『八丈の湯と絹と踊』という一冊の本があります。 ここには、八丈島の芸能の変遷を知る上で、ハッとするような記述が残されています。

■東京都指定無形民俗文化財、その正体

まず、基本となる意外な事実からお話ししましょう。 よく「八丈太鼓は東京都の無形文化財だ」と耳にしますが、厳密には少し違います。 磯崎氏の本にも明記されている通り、昭和27年(1952年)に東京都の文化財として指定された正式名称は、「八丈島の民謡」です。 その内訳は「ショメ節・太鼓節・春山節」。

そう、文化財としての主役はあくまで「民謡(唄)」であり、太鼓はその唄を構成する要素の一つ、という位置づけなのです。

■「太鼓の名手」が、太鼓を叩かなかった日

この「唄が主役」だった時代の空気感を象徴する、非常に興味深いエピソードが同書に見つかりました。 昭和4年(1929年)5月、昭和天皇が八丈島へ行幸された際のことです。

全島あげての大歓迎の中、陛下に島の芸能を披露する機会がありました。 その際、歓迎の歌い手として選ばれたのは、岡本ノブ氏、稲田カエ氏、天田トメノ氏といった女性たちでした。 八丈太鼓の愛好家なら、このお名前にピンとくるかもしれません。 そう、後に「太鼓ばやしの名手」としてその名を轟かせることになる方々です。

しかし、記録にはこうあります。

「ショメ節・春山節を岡本ノブ・稲田カエ・天田トメノ氏が『御手立』『不動の滝』の近くで歌うということがあった」

そして、その直後に続く一文が決定的です。

「稲田・天田両氏はその後ショメ節の本流をなすもの、太鼓ばやしの名手として尊ばれるようになった。」

つまり、後に太鼓の名手として尊敬される彼女たちであっても、天皇陛下をお迎えするような最上級の「ハレの場」において求められた役割は、太鼓を叩くことではなく「唄うこと」だったのです。 この記述は、当時いかに「唄」が芸能の中心にあり、重要視されていたかを如実に物語っています。

■喝采を浴びたのは「踊り」だった

時代は下り、昭和29年(1954年)の日比谷公会堂。「東京都郷土芸能大会」においても、その序列は健在でした。 大観衆を前に八丈島の芸能が披露された際、会場を揺るがし大喝采を浴びたのは、太鼓のソロ演奏ではなく「樫立踊(場踊・手踊)」でした。

■歴史を知って、バチを握る

その後、全国的な和太鼓ブームや観光化の流れの中で、八丈太鼓はそのスタイルを洗練させ、ステージの主役へと躍り出ました。

しかし、「八丈太鼓が無形文化財だ」という誤解が広まるほど太鼓が有名になった今だからこそ、私たちは一度、原点に立ち返る必要があるのかもしれません。 伝説の名手たちですら、最初は「唄い手」として評価されていたという事実。 それは、「太鼓は決して単独で存在しているのではない」という、この芸能の根幹に関わる哲学を私たちに問いかけています。

そういえば、八丈太鼓の継承に尽力された奥山熊雄さんも、生前よく口にされていた言葉があります。

「唄と、太鼓と、踊り」

太鼓だけではない。唄だけでもない。 この三つが揃い、混じり合ってこその八丈島の芸能なのだと。

ステージでバチを握る時、かつての彼女たちが大切にした「唄」を、そして奥山さんが唱えた「三位一体」の心をイメージしてみる。 そうすることで、私たちが叩くその一打は、単なるリズムを超え、より深く、より豊かに「八丈島」を語る音色になるはずです。

参考資料

  • 磯崎八助 著『八丈の湯と絹と踊』

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