1847年の記録が語る八丈太鼓の原風景 ――『絵入八丈土産』と『八たけの寐さめ草』、二つの江戸期文献から

1847年の記録が語る八丈太鼓の原風景

――『絵入八丈土産』と『八たけの寐さめ草』、二つの江戸期文献から

八丈太鼓の起源について、「流人の武士が刀の代わりにバチを握った」という説は広く語り継がれています。力強く、哀愁を帯びたロマンとして、この物語は多くの人の心をつかんできました。

しかし、江戸時代後期に書かれた二つの文献には、それとはまったく異なる八丈太鼓の姿が記録されています。そこに描かれていたのは、島の娘たちが盆踊りの夜に太鼓を打ち囃し、夜明かしで踊る、生活の中の祝祭としての太鼓でした。

二つの文献

『絵入八丈土産(えいり はちじょうみやげ)』

弘化四年(1847年)成立。醒劉による絵入りの記録で、鹿児島大学附属図書館・玉里文庫に所蔵されています。国文学研究資料館の国書データベースに書誌情報がありますが、広く知られた資料ではありません。八丈太鼓に関する記述を含む文献としては、現在確認できる限り最も古いものです。

『八たけの寐さめ草(やたけのねざめぐさ)』

弘化五年(1848年)序。鶴窓主人による地誌で、東京大学総合図書館をはじめ複数の機関に所蔵されており、研究者の間ではよく知られた資料です。

太鼓を打っていたのは、島の女性たちだった

二つの文献は、1年違いで、ほぼ同じ光景を記録しています。

『絵入八丈土産』(1847年):

「娘たちは太鼓うちはやし おどり衣装をきかえ 夜明しにおどる事妙なり」

盆踊りの唄として「さつま・横手・とよんぶし・よいこのぶし(=よしこの節)・松坂」が記録されており、「十三日夜より十七日迄毎夜」踊りが行われていたと記されています。絵には、松の木に吊るされた太鼓を叩く人物と、輪になって踊る人々が描かれています。

『八たけの寐さめ草』(1848年):

「傍らに太鼓を松の木につるして、女の子ども寄り合いて裏表から打ちはたく」

「つがる」という唄を太鼓の拍子にのせて歌ったとあり、盆踊りの演目は二十八品が挙げられています。挿絵の説明には「婦人盆中太鼓打図」と明記されています。

注目すべきは、『寐さめ草』の「裏表から打ちはたく」という記述です。現在の八丈太鼓の最大の特徴である、二人が太鼓の両面から向かい合って叩くスタイルが、1848年の時点ですでに行われていたことを示しています。

太鼓は「芸能の一部」だった

どちらの文献にも共通しているのは、太鼓が単独の芸能として記録されているのではなく、盆踊りという祝祭の中で唄や踊りと一体になって機能していた、ということです。

『絵入八丈土産』では盆踊りの唄の演目名が列挙され、その中で娘たちが太鼓を打ち囃したと記されています。『寐さめ草』でも、太鼓の記述は盆踊りの場面の中にあり、「つがる」という唄の拍子として太鼓が使われています。

この構造は、現在の文化財制度における位置づけとも整合しています。昭和27年(1952年)に東京都の無形民俗文化財として指定されたのは「八丈島の民謡(ショメ節・太鼓節・春山節)」であり、昭和47年(1972年)に国により選択されたのは「八丈島の芸能」です。いずれも太鼓単独ではなく、唄・踊り・囃子を含む芸能全体を対象としています。

※補足:国の「選択」とは、国が公式に認定する「指定」とは異なり、「記録を残して保存していくべき対象」として位置づけられる制度です。

流人説と生活文化説

流人の武士が太鼓に思いを託したという説は、島のロマンとして大切にされてきました。しかし、これら二つの文献に記録されている太鼓の担い手は、流人ではなく、島の女性たちです。

『絵入八丈土産』は「娘たち」、『寐さめ草』は「女の子ども」と記し、太鼓を打っていたのが島の若い女性たちであったことを一致して伝えています。

太鼓は、島の暮らしの中から生まれた祝祭の音であり、女性たちの手で打ち継がれてきた生活文化の一部だった。1847年と1848年、二つの文献は、そのことを静かに、しかし明確に語っています。

参考資料

醒劉(画)『絵入八丈土産』弘化四年(1847年) 鹿児島大学附属図書館 玉里文庫所蔵

鶴窓主人『八たけの寐さめ草』弘化五年(1848年)序 東京大学総合図書館ほか所蔵

国文学研究資料館 国書データベース

文化庁 国指定文化財等データベース

東京都教育委員会 八丈出張所 文化財一覧

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