八丈太鼓はなみずきの奏子です。
八丈太鼓の由来については、昔からいくつかの話を聞いてきました。
よく知られているのが、「流人が八丈太鼓を始めた」という話です。
江戸時代、八丈島に流された武士たちは刀を取り上げられ、その代わりに二本の撥を持って、鬱憤を晴らすように太鼓を叩いた。
そんな話です。
一方で、女性たちが太鼓を叩いていた、という話もありました。
私が八丈太鼓を始めたころには、すでにそういう話があったので、私は特に「どちらが本当なんだろう」と考えていたわけではありませんでした。
ただ、八丈太鼓をよく知っている人たちの間では、以前から、
「流人が八丈太鼓を始めた、というのは違うよね」
という話がありました。
私自身も、そういう話を聞いていました。
水野只道さんからは、
「葛西重雄先生も、流人が八丈太鼓を始めたというのは違うと言っている」
という話を、何度となく聞いています。
ここはきちんと書いておきたいのですが、私は葛西先生から直接聞いたわけではありません。
水野さんから、そう聞いていたということです。
だから、「流人説なんて、昔の人がみんな信じていた間違った話だった」というような認識ではありませんでした。
むしろ、私の中では少し不思議でした。
違うと分かっている人たちがいるのに、なぜ、その話は残っているんだろう。
そう思っていたのです。
文献を調べてみる
その後、八丈太鼓についていろいろ調べるようになりました。
すると、かなり古い文献に、女性たちが太鼓を叩いていたことが出てきます。
1847年の『絵入八丈土産』には、
娘たちは太鼓うちはやし おどり衣装をきかえ 夜明しにおどる事妙なり
という記述があります。
さらに1848年の『八たけの寐さめ草』には、
傍らに太鼓を松の木につるして、女の子ども寄り合いて裏表から打ちはたく
とあります。
「女の子ども」が集まって、太鼓を木につるし、裏表から叩いている。
しかも、これは江戸時代の終わりごろの記録です。
「女性が太鼓を叩いていた」という話は、後から作られたものではありませんでした。
少なくとも、この時代には、八丈島の女性たちが太鼓を叩いていたことが文献に残っている。
これは、私にとってかなり大きな発見でした。
そこで今川先生の本に出会った
さらに調べていく中で、今川健司先生の書かれた文章に出会いました。
そこには、八丈太鼓の由来について、
- 最初期の文献に出てくる太鼓の記述
- 当時の島の慣習
- 島の産業
- 社会の状況
などを合わせて考えると、
年貢として納める黄八丈を織っていた女性たちが、気晴らしに太鼓を叩いたという説が信頼できるのではないか
ということが書かれていました。
なるほど、と思いました。
単純に、
「流人説は違う。だから女性説が正しい」
という話ではない。
残っている資料と、その当時の八丈島の暮らしを合わせて考えていくと、女性たちが生活の中で太鼓を叩いていた姿が見えてくる。
そのほうが、私にはずっと自然に思えました。
そして、ちょっと面白いことがあります。
今川先生は、今では私が主催している「たたいてみよう八丈太鼓」で講師をお願いしている先生です。
昔、八丈太鼓のことを調べていて読んだ先生の文章を、今は自分のイベントで参加者に伝えていただいている。
こういうところにも、八丈太鼓の「伝わっていく」ということの面白さを感じます。
それでも、流人説は残っている
では、どうして「流人が八丈太鼓を始めた」という話は、今も残っているのでしょう。
ここで私は、ようやく「流人祭り」のことを考えるようになりました。
八丈島には、かつて流人祭りという大きなお祭りがありました。
流人の歴史をテーマにしたお祭りで、その中では流人にまつわる物語が語られていました。
そして、そのお祭りでは、八丈太鼓も叩かれていました。
太鼓のコンクールも行われていた。
つまり、
「流人」と「八丈太鼓」は、もともと何の関係もないものを、後から誰かが無理やりくっつけたわけではなかった。
流人祭りという実際の場があって。
そこには流人の物語があって。
その場で、実際に八丈太鼓が叩かれていた。
そう考えると、少しずつ分かってきました。
「違う」と言わなかった理由
八丈太鼓をよく知っている人たちが、
「流人が八丈太鼓を始めたというのは違う」
と思っていた。
それでも、その話を完全に否定しなかった。
私は、それは「知らなかったから」ではなかったんじゃないかと思うようになりました。
流人祭りの中で語られていた、その物語を大切にしていたからです。
祭りには、祭りの物語があります。
その物語を聞きながら人が集まり、太鼓を叩く。
そこで生まれた思い出もある。
その時代を知っている人たちにとっては、単なる「八丈太鼓の起源説」ではなかったのでしょう。
自分たちが過ごしてきた祭りの記憶そのものだった。
だったら、
「それ、歴史的には違うから」
と簡単に切り捨てることなんて、なかなかできない。
私は、だんだんそう思うようになりました。
たぶん、私が最初に考えていたこととは違った
最初は、
「流人説は違うんじゃないか」
というところから始まった話でした。
でも、資料を見て、昔の記録を読んで、今川先生の文章を読んで、さらに流人祭りのことを考えていくうちに、
「流人説をなくせばいい」
という話ではないんだな、と思うようになりました。
むしろ、
「流人説は、いったいどこで語られていた話だったのか」
と考えたほうが、しっくりくる。
そうすると、
「八丈太鼓は流人が始めた」
という一文だけを残すのではなく、
「かつて八丈島には流人祭りという祭りがあり、そこで流人にまつわる物語が語られ、八丈太鼓が叩かれ、太鼓のコンクールも行われていた」
というところまで見えてきます。
それなら、私はそのほうがいいと思う。
流人祭りの物語を消す必要はない。
大切にされてきたものを、なかったことにする必要もない。
ただ、
「八丈太鼓の起源」と「流人祭りで語られていた物語」は、少し分けて考えてみよう。
それだけのことなのかもしれません。
そして、今も太鼓は残っている
流人祭りは、もうありません。
でも、そこで叩かれていた八丈太鼓は、今も残っています。
島でも、島の外でも、いろいろな人が太鼓を叩いています。
私自身も、今は「たたいてみよう八丈太鼓」という場をつくって、八丈太鼓を伝える側になりました。
そうやって考えてみると、不思議です。
昔の人たちが大切にした物語があって。
その物語の中で太鼓が叩かれて。
その太鼓が、今も私たちのところまで届いている。
だったら、私たちが次に伝えていくときには、
「流人が八丈太鼓を始めた」という一つの話だけではなく、
「流人祭りという祭りで、こんな物語が語られ、そこで八丈太鼓が叩かれていた」
というところまで伝えていけばいい。
そうすれば、流人祭りで大切にされていた物語も残る。
そして、八丈太鼓の歴史についても、また別の資料から考えていくことができる。
私がいろいろ調べて、いろいろな人の話を聞いて、今のところたどり着いたのは、そんなところです。
結論をひとつに決めるというより、
それぞれの話が、もともとどこにあったのかを見つけてあげる。
そのほうが、八丈太鼓のことを長く伝えていくには、いいんじゃないかなと思っています。

