――自分を裁かないための、ひとつの問いかけ
八丈太鼓を叩いていると、ふと、言葉にならない不安に捉われることがあります。
「自分は、正しい八丈太鼓を叩けているのだろうか」
「自分は、どこまで認められているのだろうか」
「伝統か、アレンジか」
「本物か、偽物か」
そんなふうに、0か1かの二元論で自分の太鼓を測ろうとすると、いつの間にか音が変わってしまうことがあります。
自分を守るための盾になったり、
誰かを排除するための刃になったり。
でも、もし八丈太鼓という文化を「0か1か」ではなく、純度や解像度のグラデーションとして捉えてみたらどうでしょう。
「形式」と「深さ」は、同じではない
たとえば、ある演奏者を思い浮かべてみます。
一台の太鼓を挟み、向かい合って下拍子と上拍子を打ち鳴らす。
八丈太鼓という「形式」の再現度は、100%かもしれません。
一方で、八丈島の歴史や暮らし、人との関わり、そこに積み重なってきた物語への理解は、まだ60%かもしれない。
そして、文化を未来へつなぎ、次の世代を育てていくという「伝承への関わり」は、50%かもしれない。
だからといって、その人が「50%しかない」「半分偽物だ」という話ではありません。
むしろ、
「自分はいま、この場所から八丈太鼓と向き合っている」
と知るための数字です。
%は、誰かを採点するためのものではありません。
自分自身の現在地を知るための、ひとつの目安です。
「足りない」は、恥ではない
自分には素晴らしい打撃技術がある。
けれど、島とのつながりや、歴史への理解、人との関わりという点では、まだまだ深められるところがある。
そう気づいたとしても、それは恥ずかしいことではありません。
むしろ、そこから先には、まだ知らない世界が広がっている。
「足りない」を「欠点」と決めつけるのではなく、
「ここから、もっと知ることができる」
と考える。
そうすれば、足りない部分は「恥」ではなく、輝かしい探求の道になります。
背伸びをして、無理に「伝統の継承者」という重い肩書を背負う必要もない。
批判を恐れて、自分の周りに言葉の城壁を築く必要もない。
島との関わりを持ちたいと思ったからといって、誰かの傘下に入らなければならないわけでもない。
文化に支配関係や上下関係を持ち込まない。
それもまた、八丈太鼓を開かれた文化として未来へつなぐために、大切なことなのだと思います。
問い続けることが、純度を上げる
では、
「自分の八丈太鼓は、今何%なんだろう?」
と問いかけてみる。
答えは、昨日と今日で変わってもいい。
技術が上がれば変わる。
島を知れば変わる。
誰かと出会えば変わる。
誰かに太鼓を伝えれば、また変わる。
そして、数字そのものに正解はありません。
大切なのは、数字を決めることではなく、自分の現在地を誠実に見つめることです。
実は、
「自分は今、何%なんだろう」と丁寧に問い直すこと自体が、すでに八丈太鼓の純度を高めている。
私はそう思っています。
なぜなら、その問いには、
「もっと知りたい」
「もっと深く関わりたい」
「もっといい音を出したい」
「誰かに伝えてみたい」
という、次の一歩が含まれているからです。
純度とは、完璧さではない。
誠実に向き合い続けること。
その姿勢そのものなのだと思います。
「絆の音」だから
八丈太鼓の魅力は、技術だけではありません。
一台の太鼓を挟んで、向かい合う。
相手の音を聴く。
自分の音を返す。
言葉ではなく、音で会話する。
そこには、人と人とをつなぐ「絆の音」があります。
だから、誰かの八丈太鼓の純度を測って、優劣をつけるために「%」を使うのではありません。
自分自身が今どこに立っているのか。
そして、これからどこへ向かってバチを握るのか。
そのために問いかけるのです。
「あなたの八丈太鼓は、今何%ですか?」
そして、その答えは誰かに報告する必要なんてありません。
自分が分かっていれば、それでいい。
100%にならなくてもいい。
50%でも、30%でも、昨日より1%深くなったなら、それでいい。
あるいは、今日は何も考えずに、ただ太鼓が楽しくて叩いている。
それだって、いい。
自分が好きだと思った太鼓を叩けばいい。
誰かの正解に合わせるのではなく、自分の好きな音を探せばいい。
一打一打、響かせる。
そして、止めない。
次の一打へ。
また、その次の一打へ。
八丈太鼓は、完璧になるために叩くものではない。
自分が今ここにいることを、音にする。
その音が誰かに届き、また誰かの音が返ってくる。
その繰り返しの中で、太鼓は生き続けていく。
だから今日も、
好きな太鼓を、好きなように たたこう。
一打一打、響かせる。
止めることなく。


